ゆうべ寝る前に、チェ・ジェソンさん大層大層お若い頃の映画の断片をふと見た。そらまあ可愛らしいけども、仮に当時出会っていたとして、そしたら今みたいにイカレたかなあどうだったかなあ。現在の、お色気したたり落ちる傾城のオジサンっぷりの方が断然いいぜと思うんだけどな。とかなんとか言いつつ、お若いチェ・ジェソンさんがパッと笑顔を見せたりするのを見て、うわ表情筋の使い方なんか今と全く一緒じゃん?と、実に当たり前といえば当たり前なんだけどもどきっとしたりとかして。昔の作品、ほとんど手に入らなくなってるけども、古いテレビドラマは難しいにしても映画はネット上で結構見ることができる有難い世の中になっていて、こうして夜中にココロを掻き乱され体験とかできちゃう。せっかくこういう有難い世の中なのであるからして、はやいとこなに言ってるのかわかるようになってやらねばならんぞ!とね、しみじみ思ったことでしたよ。がむばるよ。
波間に揺れる君の面影・・・、わかる方にはわかっていただけるだろうか?お若い頃のチェ・ジェソンさんに私は果たしてイカレたりしただろうか?と、かなんとか言いつつ、大昔実際にイカレていたあの方をちびっと想起してみたりしたんですけどー?一番の、夕焼け空に誓った愛を~の方がわかりやすかったかしらね(爆)。
「千秋太后」、そうよ今日はカン将軍結婚式の巻、なんだよー。思い出すたびに今朝からムカムカと腹が立つよっ。そら見たい、見たいですよ。でも見つつ世をはかなんでしまったりするかも。あと2時間足らずですけどもね。
とぼとぼよたよたと、字のおけいこは続けているのだけども、激音だ濃音だのになると息切れして字自体を覚えきっていなくて云々よりはるか手前で、単母音字すら取り違えたりしてるテイタラクはもうしょうがないので、教本に従って発音変化の部に参入したんだけども。うむむ、やはり根本をきちんと把握しとらぬために非常に大変。というか意味わからん(泣)。もう覚えた(ということになっている)字を、現在は音素音素1ヶずつ分解しないと把握できない状態だけど、単純なものでよいので見て即座に把握するという練習が必要だなあとも考え始めた。しかしどうやって?
中国語を修行するにあたっては、あのやたらと書きまくる日々には0.38ミリ顔料インクペン(?)を専ら愛用してたものだった。飽きがくるのでいろんな色を交互に使って。ある程度の長さのある文章を何度もディクテしましょうという時には例外的にシャープペンシルを使ったりもしたけど、0.2とか0.3ミリの、しかも硬い薄い芯。それが、いざさてハングルを修行しましょうか、となると、無性にえんぴつ感が恋しいような気がするんだった。0.7ミリのえんぴつシャープてなのをわざわざ買い込んできて、それからおもむろに始めたんだよ。ここでもまた、身体感覚のなんらかの変化というものが認められよう。これなんなの、トシのせいだとでも言うの?
-nと-ngの判別がほぼ絶望、有気音無気音の場合は無気音に対気音を感じ、逆にあるはずの対気音がちっとも聞こえないという、中国語の場合と同様の悲哀を味わっておるわけです。それも中国語無慮数年の経験の後であるにもかかわらず、ですよ?朝鮮語オマエモカ?!って恨むべきなのか、この期に及んでまだなにをやっとるかっ!てそう言いながら自分の影を殴る(こっちは原田真二先生。笑)、べきなのか。
有気音vs無気音に関しては、日本語の無声子音は結構有気音で発音されてるから云々という記述がどっかにあった。今ちょっと見つからないので、そのうち出てきたら補足するけど。これ、言われてみればまことその通りなんである。しかも、我らの対気音は結構恣意的?というのか感情的というのか、意味の対立には全く結びつかない上に自由勝手に気分で出しているもので、意識的にコントロールしてるわけではないのだよね。だからコントロールがかくまで困難なのだよね。朝鮮語教本に指摘されるまで気がつかなかったけども。あああ、人間いくつになっても新たに学ぶべきことは尽きぬ、というわけなのだね。
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