中国語の場合、なんかいつまでも隔靴掻痒感?とでもいうものが抜けない感があるのだけど。外界に勝手に存在するだけで、私個人にはかかわってこないとでも言うか。まいてもまいても生えぬ種が、私とは関係ないところにころころと点在し、そしてこの広い荒野に点在したまんま。伍佰様の
因為妳是我生命中的所有
で初めてちょっぴりだけ、意味の連関の芽(カイワレ大根ぐらい)がちろりと生えたという感覚を味わったんだった。しかしその後、意味のネットワークが構築されたりは、どうもしてないようだ。歌はねえ、いっぱい歌ってんだけどもねー。勉強はしないけど。
おふらんす語の場合は、雪にたとえていたなあ。雪の降り始め、ひらひら降ってきても地面を濡らすにさえ至らず溶け去ったりしてて、そのうちぼたん雪がぼたぼたと降ってくるけどすぐ溶けてしまって道はだんだん濡れてくる。まだ降るよりは溶ける一方。それからだんだんと、ぐしょぐしょでしゃくしゃくに堆積し始めて、気がつけばうっすらと降り積もっていて、あ、知らぬ間に意味ある世界が足下に出現してたんだね、って。
ところがこれが朝鮮語の場合。現在まで純粋に字と音を覚えることのみに集中しているため、単位の最大は単語にとどまる。コンニチワアリガトウすら正確には知りませんという段階なわけだけども、チェ・ジェソンさんになんとかヨ~って(今ならばそれはおそらくナントカ”요”であろうかと推察できる!)言って欲しいそれを聞きたいというか私にこの私に向かって言ってお願いそう言ってっ!とかナントカ渇望するに至るという未曽有のこの感覚。
・・・へっ?!
ってふと目を下に向けてみると、ややっ?!なんらかのツタ性の植物がにょきにょき生え出した、どころの騒ぎでなく、まっこと一夜にして膝上ぐらいまでに成長しちゃってて、わーこんがらがって絡まってるー。
これはなに?私から生えてるの、それとも朝鮮語から私めがけて生えてんの?チェ・ジェソンさんが投網を投げてくださった、とかいうんだったらどんなにいいでしょ。って、まーヨソ様のダンナさんだしな・・・。
このあと、意味の世界に参入する(ことができるようになる)まで辛抱しきれるかも怪しいものではあるな。だって、字も発音も大変な難物ですよ。激音だ濃音だって言ったって、その差は日本語耳にはあまりに微妙すぎる。そして閉音節多すぎてすごーく抑圧されてるー感あり。
例:김밥, 국밥
そう、たかがゴハン食べよったってかくまで抑圧されんだよー。有気音無気音の対立は、中国語のそれとほぼ同様に考えてよいとか、物の本には書いてあるけども、中国語の方がはるかに息をぱーん!と力一杯吐くよねえ。中国語で歌うと、ちょっとしたカタルシス感があったりするよ。
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